ディフェンスとしての英語
受験における数学がOffenceだとしたら英語はDefenseです。 例えば、数学でせっかく大問を1問、他の生徒より多く解けるようになっても、英語の知識問題を4つ間違えばそのリードは消えてしまいます。 守りを固めるのは地道な知識の習得です。これには、滝のように知識を流し込むことによって、こぼれるよりもたくさん覚えさせて浴びせ倒すという方式でもあります。 しかし、それでは本当に内容のある英文が出題された時にそれを乗り越える英語力はつきません。 塚本では「覚える」ことと「考える」ことの融合を図ります。論理的思考
多民族国家の国語として、英語は「ここまでは約束である」というルールが日本語よりもはっきりしている言語です。 だからこそ、「ここがこうなっているから、ここはこういう意味である」、とか「ここにはhelp以外入らない」というようなことを、 いかに明確に言えるかを、教師は常に考えて授業をします。対象が数学のように明確ではなく、 言葉であるためにどうしても生じるある種のあいまいさも含めて、こういう場合にはこうであると はっきり生徒に伝えて授業を進めていくうちに、生徒は、言葉を、そしてその奥にある思考を学ぶのに必要な、論理が身についてきます。 そしてこれが身についた時、帰国子女だから英語はまあまあできると思っているような人々を最後には抜き去るチャンスが生まれます。最後は帰国子女に勝つ
生きた英語に触れた時間が多い帰国子女は、高校入試の場合はそれが基本的な範囲しか出題できないからこそ、確かに有利です。 あいさつをし、コミュニケーションをとることそのものの体験は言葉の非常に大切な一部分です。しかし体験が与えてくれるのは入口にすぎません。 その奥にある知識を、読み。書き。話すことの喜びにつながるように学ぶことこそ最後の鍵になるのです。 それを「生かし」てやるような授業をすることで、高校入学半年後、「全校が同じテストをやったんだけど、 俺の点が高3の平均を軽く超えました(早稲田高等学院本庄/宮田 岳)」といえるような英語力を身につけることができるのです。 論理的に思考する訓練を鍛え抜いているからこそ、最後の最後に上位校の問題で、難しいものに当たったときに、 あれ?ととまった瞬間、塚本数学クラブの生徒はその強みを発揮します。国語力という曖昧なものがあるのではない
彼女は国語力がないですから」とか、「彼の国語のセンスがありますから」という事が、よく言われます。 国語が得意だという生徒と、不得意だという生徒の、何が違うのかは言葉で表しにくいので、そういう言葉で、 「できる」と「できない」を分けて安心しようとしているのです。しかし、その場合、国語力と呼ばれたり、 センスと呼ばれるものが実際にあって、それが国語の「できる」「できない」を決めているのではなく、 ただできる子にセンスがあるといっているにすぎないのです。 そんな曖昧なセンスなどといるものを目標にして学んでも、国語ができるようになるわけではありません。 できる生徒ができるのは、どういうときにどうすればいいのかを、知っているという事につきます。 つまり、日本語で与えられた文章を、出題者の意図に沿っていかに処理できるかが問題なのです。 その能力を訓練するのが、国語の学習です。 何をどうしたらいいのかを具体的にはっきり示し、それを実際にやって見せ、それを実際にやらせて、 自力でできるようになるまで指導すること。これが塚本数学クラブの国語です。基本に忠実に
その基本となるのは、何が問われ、そういうときにはどう答えればいいのかをきちんと訓練する指導力、 きちんと入試問題に裏打ちされた知識、古文や文学史といったついおざなりにされる事柄に手を抜かないことなのです。すべてを支えるものとしての読書
それだけではありません。塚本数学クラブは、数学の教師であれ、英語の教師であれ、受験生に読書をさせることを禁欲しません。 ものを考えることを読書そのものを通じてやらずに、数学・英語・国語の学習が成り立つはずがないからです。 また、そこまで受験生が時間に追われているかというと、読書する余裕さえない状態では、 その生徒の学習は木を見て森を見ていないといえるでしょう。 本当に書物を読むことと真につながった国語の授業を我々は目指しています。